『心の壁』を取り払って『ありのまま』を感じること。~受け止めて、感じて、外に出す
見上げると、夏のような雲。そして、遠くから聞こえる子供たちの歓声。
ベランダのハイビスカスには、真っ赤な二輪の花が咲いています。
風に流された雲の隙間から、日が差し込みました。
日に照らされる鮮やかな赤色を感じながらも、
ねっとりとした感触のようなものが、耳の奥に居座っています。
===
前日の電話口からの声が、ずっと耳から離れません。
「お前はやっぱり、うちの疫病神だな。どうせそんなことだと昔から分かっとった。」
「お前みたいな奴は、もう何をやっても無駄だ。二度と顔なんてみせるな。」
「精神病院にでも放り込まれて、二度と出て来るな。」
「お前みたいな奴は居るだけでロクなことにならん。世の中から消えろ。この気狂いが。」「どうにでもなってしまえ。」
昔のように言い返す気にもならず、
電話の向こうの声を聞きながら、私はぼんやりと考えていました。
このような言葉は、一体どんな気持ちから出てくるのだろう。
- 何のために、怒鳴りながらこんなことを伝えてくるのだろう。。
- 彼がこのような人間になった原因は何だろう。。
- もしかしたら上手く言えないだけで、実はもっと他のことを伝えようとしているのかもしれない。。
少し考えた始めたところで、相手の事情を考えてみようとする「いつもの癖」に気付き、ふと思い留まりました。
「考えるのは、結局自分を守るため」
「置かれている状況を、自分に納得させるため」
相手に対する我慢とも、受容ともちがう、
離れたところから自分を見ているような感覚を感じながら、
電話から聞こえてくる声に、耳を傾けていました。
動揺することもなく、ただ、聞いていました。
小学生の頃から繰り返されていた変わらない情景。終わりの見えない罵声の数々。。
新聞配達の音を聞きながら電話を終えた途端、体の力が抜けました。
=====
これまでも相手の行動に「違和感」を抱いたとき、
相手がそのような行動をとった理由を、いつも考えていました。
自分が感じた違和感の原因を知りたい。。。
相手のことをもっと良く知りたい。。。
そんな気持が、私を動かしていました。
一方で、相手から「理不尽な対応」をされ、「不快感」を覚えた場合にも、
自分の気持ちを納得させるために、できる限り前向きな理由を見つけ、
結果として「自分の正直な気持ち」から目を背けることを繰り返してきました。
「相手にも、このようなことをした理由があるはずだ」
「たとえ本人が気付いてなくても、このようなことをしてしまった原因があったに違いない。」
相手の事情を考え、相手の言動の理由を見つけることさえ出来れば、
相手に抱いた感情(不快感、違和感)を抑えることはそれほど難しいものではありませんでした。
そして、多少のことであれば上手く乗り越えられる“つもり”でした。
しかし、自分の気持ちを「心の中の箱」に閉じ込め、
「上手く乗り越えることができた」と思っていても、
「心の中の箱」に閉じ込められた気持ちは、これまでも度々私の前に現れました。
- 「明け方の夢の中」
- 「同じような状況に直面した時」
- 「仕事に追われて眠気に襲われた時」
- 「眠気を感じながら運転している車の中」・・・
忘れていたはずの光景が、まるで現実のことのように現れました。
半年前のこと、3年前のこと、10年以上前のこと。。。いつの出来事であるかは関係ありませんでした。
相手の事情を考え直してみたり、新しいことをしたり、何かに没頭したり、体を動かしたり、時間が解決してくれると信じてみたところで、
私にとっては一時的な気休めでしかありませんでした。
そして、
「自分の正直な気持ちから目を背け続けると、いつか我慢の限界が来るかもしれない」、
「いつまでも我慢し続けることができるわけではない」と、心の中に小さな焦りを感じていました。
- 「自分の正直な気持ちから目を背けずに、目の前の出来事を上手に受け入れられる方法」を見つけたい。。
- 相手の事情や置かれた状況を考えることで「やむを得ない」と自分に言い聞かせ、自分の気持ちに蓋をしてしまうようなことは、何とか避けるようにしたい。。
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「自分の加害性を意識してみる」ことについて、また考えていました。
事あるごとに思いにふけっているのですが、
「分かったようで、わからない」ことに、いつも心の中に引っ掛かりを感じていました。
もしかしたら「自分は問題のある人間である」という立場からしか、見ることが出来なくなっているのかもしれない。。
もっと簡単な見方もあるのかもしれない。。
天井を眺めていると、ふと思いました。。
『自分が持っている「加害性」という牙を抜く(武器を捨てる)』ことができれば、
『弱くて、正直で、裸の自分』が外に現れて、
外界に対する余計な守りを捨てることができるんだよ。。。
目の前の現実を、しっかりと自分のこととして、感じることができるんだよ・・・
ということかもしれない。。。
つまり、
「自然体になって、周囲への不信感や焦りを捨てると、『ありのまま』を感じられるようになって、自分の良心に従った感じ方や判断がしやすくなる」と。(※)
(※)目の前にいる ”よくわからない生物” に対して銃を向け続けると、危険な生き物のように感じてしまう。。逆に、”よくわからない生物” は危険な生き物だと思い込むと、銃を向けたくもなります。しかし、勇気を持って銃を捨て、目の前の”よくわからない生物” と静かに向かい合ってみると、自分の心が捉えた「ありのまま」を感じやすくなるよ、ということかなと思いました。もしかしたら、”よくわからない生物” は、生き物ですらなくて、危険ですらなくて、風に吹かれた紙切れだったという事に気付くことになるかもしれないのです。。

そして、外に対する「守り」は3つあるように感じました。
① 攻撃(加害性)による守り
② 堅固な防御による守り
③ 侵入されても、上手く対応できる力(消極的な守り。底力。)
①先制攻撃、②専守防衛、③個々の人間の底力(?)
とも言い換えることができるのかもしれません。(社会情勢も先制攻撃が流行りです。。)
(上の絵を見ていると、なんだか細胞のようにも見えてきました。人の感情も、結局は細胞のようなもの??自然界は共通点が多い??同じようなモデルで捉えることもできる??自然界の普遍性??少し興味深いです。)
① 攻撃(加害性)により自分を守ることを止め(そのために、まずは加害性を認める)
② 外の世界との間にある堅固な壁を取り払い、
③ 自分の中に入ってきた「外からの攻撃」は、「ありのままを受け止めて」「感じて」「外に逃す」。
このような行動が、
- 自分の正直な気持ちから目を背けずに、目の前の出来事を上手に受け入れられる。
- 相手の事情や置かれた状況を考えることで「やむを得ない」と自分に言い聞かせ、自分の気持ちに蓋をしない。
ということに、繋がるように感じました。
そして、自分の中に入ってきた「攻撃(外の世界からの加害性)」に対しては、
- ただ、ありのままを感じることができること(攻撃であると先入観を持って捉えない)
- 「そのまま受け止め」「感じて」「外に出す」ことができる「余裕のようなもの」を持つこと。(ワルツのステップをイメージ。テンポ良く。)
- 心の中の「痛みの元」(刺激されると過剰の反応してしまう部分)には、苦しくても向き合って、自分で受け入れられるようになること(自分の課題の解決)。
が大切なのだろうと感じました。
ただ、これは、
目先のことに不安になったり、勘ぐったり、疑ったりするのではなく、
自然の中で「自分の気持ち」「置かれた状況」の「ありのまま」を感じる心を持つことができれば、上手く解決できるようにも感じます。
(感じた後に、頭で考え始めると、不安が次第に大きくなる場合もあるので要注意です。過去の自分はいつもそうでした。。きっと、テンポを意識すれば大丈夫のはず。。)
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実家からの電話は、いつもと変わりませんでしたが、
自分の問題については、何を言われてもしょうがないことは事実です。
目の前の現実、自分の中にある問題はしっかり認めて、向かい合い、
改善を目指して前向きに歩き続けようと思います。
電話の向こうの相手に、昔のように言い返したいとは思わなかったこと、
静かに聞くことができたことは、以前からの小さな進歩かな、、と心の隅で感じながら。。。
(※)正直なところ、電話の後はもうダメかと思いましたが、天井を眺めながら色々なことを思い出し、戻ってくることができました。。。近々やろうと思っていた実家とのストレステスト(父親との会話)でしたが、思いもよらず無防備な状態で機会が廻ってきたことは、ある意味で有難いことだったのかもしれません。。
今日もありがとうございました。
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やす君パパのLiveブログ。
『人を信じる』 ということ ~何があれば、相手を信じることができるのか
最近どういうわけか、上司か優しいのです。
といっても、「毎度の小言」を言われることが少なくなった、というだけです。
上司からは、妻の出産前後に急な休みを何度も取ることになった私に対して、
個人的にも、全体のミーティングでも、「小言」を繰り返し言われ続けていました。
- 「やむを得ないことはわかっているけど、仕事くらいは、ちゃんとやってほしい。」
- 「一体いつになったら、子供や家族のために休むことが無くなるのか教えて。」
- 「そんなあなたには、危なっかしくって仕事はあげられないし、ウチの部署にあなたにあげられるような仕事があると思う?」
- 「あなたは要注意人物だから」「目をつけられているんだからね」「気を付けたほうがいいよ」
1年近くが経ち、彼女から「小言」を言われることは、少なくなりました。
私も、少々のことなら上手く切り返せるようになってきたんですけどね。。
そして、今までのように仕事が振られ、あとは放置される日常に戻りつつあります。
仕事が振られ、あとは放置。。。
これは、プライベートと仕事のバランスを変えようとしている私にとって、大変有難いことです。
- 「定時帰宅宣言」をしても「いいことだね」と言われ、
- 自由に有給休暇をとっても「取れるときに取ればいい」と言われ、
- 突然休んでも、仕事に支障がなければ、周りからは何も言われない。
一方で、
- 何かが起これば、自分が解決せざるを得ないし、
- 解決に手間取れば、仕事は終わらないし、当然家にも帰れないし、
- 自分の仕事を助けてくれる同僚も、そもそもいない(担当制なのです)。
という苦しさもありますが、
自分で上手く立ち回ることさえできれば良い話だと思っています。
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そういえば少し前の打ち合わせで、上司が何やら言っていました。
- 「こっちだって誰に仕事を振るか考えるの、結構大変なんだから。」
- 「でも信じて任せなきゃ、何も始まらないでしょ。」
- 「前回やらかしても、今回ちゃんとやってくれればいいんだから。」
- 「一度任せたらいちいち状況を確認するつもりはないし、やってくれてるのならそれでいいから。」
- 「何かあれば、早めに教えてくれたらそれでいいよ。」
意外と良いことも言うと思いつつ、
「人を信じること」とは何なのか、少し考えさせられました。
- 一体何があれば、人は相手を信じることができるのか。そして、信じることができなくなるのか。
- 信じるためには、「なにか」が存在していることが必要なのか。
- 「なにか」があれば、信じることができるのか。その「なにか」とは何か。
- 「なにか」は、相手から与えられるものなのか、自分の中にあるものなのか。
- それとも、第三者から与えられる「保障」「裏付け」のようなものなのか。
- 「直観」で信じるのか、「納得」できれば信じるのか。
- 信じたいという「想い」があるから、信じようとするのか。「想い」の中には、もう一つの「別の気持ち」が隠されているのではないか。
- 信じるためには「時間」が必要なのか。それは何のための「時間」なのか。「時間」をかければ信じられるのか。
- 人を信じられないのは、相手に「問題」があるからなのか、自分の中にある「問題」も原因なのか。そして、相手の「問題」が解決されれば、信じられるようになるのか。
- 「問題」が解決されたことを、どのような方法で認知できるのか。
- 目に見えないものを「解決した(された)」と感じるためには、結局「信じる」ことが必要となるのではないか。
- 問題が「解決した(された)」という状況は、存在し得るのか。相対的な意味合いで捉えればよいのか。
- やっぱり、人を信じるために必要な「なにか」なんて、何もないんじゃないか。。
- だとすれば、もし「相手を信じられない」のであれば、「信じたくないと感じている」だけなのかもしれない。
- ただ、この結論に至るまでの考え方を、自分の中で、言葉にできるほど纏められているわけもはない。。。
「人を信じること」とは何か。。
こんなことを口に出すこのは青臭い、、と思いながら躊躇していましたが、
考え始めると、モヤモヤとした気持ちが止まらなくなります。
目の前のことに追われ、無難に物事を処理することを優先してきた日々の生活の中で、
このようなことを考える機会が廻ってくるとは思いませんでした。学生時代以来の新鮮さを感じます。
きっと、誰かが素敵な答えを持っていそうだけれど、もう少し悩んでから助けてもらおうと思います。
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「人を信じること」とは何か、と考え始めると悩ましくなりますが、
「日頃の生活で、あなたはどのような時に人を信じていますか?」
という質問に対する私の答えは、簡単です。
『どんな厄介な人であっても、悪い人であっても、嫌な人でも、相手を信じています。』
- 信じた結果、ひどい仕打ちを受けても、それはそれでしょうがないと思っています。(信じたことに対する見返りを、相手に期待するつもりはありません。頼んだことはやってもらいたいと思っているけれど「信じている」かどうかは関係ありません。)
- もちろん、相手と距離を置きたいと感じ、避けることはあります。(私の中で「信じること」と「受け入れること」は違うのだと思います)
- その相手と会ったときに、警戒しながら接するかもしれないけれど、「相手を信じる」という気持ちに変わりはありません。(先入観を持たず「受け入れられる何かが見つけられれば良いな」と思いながら接します。)
- 「私に対して、嫌なことはしないでほしい」という気持ちと、「相手を信じること」は、全く別物だと考えています。(「あなたの言っていることは信じられない!」と思うことはありますが、相手のことは変わらず信じています。)
これは、「人を信じる」ということを意識し始めた小・中学生の頃から、変わらないように思います。
そういえば(余談ですが)、
学生時代に、刑法理論で対立する「古典学派」と「近代学派」の考え方に触れたとき、「古典学派」の中に一貫する「人の主体性を信じる」という考え方に対して、とても印象深いものを感じたことを思い出しました(自己学習なので見当違いかもしれません・・・)。(※)
備忘までに、「古典学派」「近代学派」の考え方を簡単にまとめておきます。
(この分野は、全くの素人なので十分気を付けてください。私の思い込みや誤解も含まれていると思います。)
古典学派の考え方(前期:18世紀~、後期:19世紀後半~)
・人は本来、自分の意思により自己の行動を制御することができる
・道義に反する行為を選択したことに対して刑罰が科される
- 人は自分の意思で犯罪をするかしないかを決められる(意思自由論)
- 犯罪は、犯人自らの自由意志により選択した結果であり、必然的なものではない。
- 実在した行為とその結果に対して(実在説)、道義的非難として刑罰(応報刑)が与えられる(道義責任論)。【応報刑主義】
近代学派の考え方(19世紀後半~)〔ロンブローゾ、フェリー、リスト〕
・人は素質や環境により犯罪を犯すかどうかが決定されている
・行為者の反社会的性格、社会的危険性に対して刑罰が科せられる
- 人の行動は、遺伝的素質と社会的環境によって支配されている(決定論)
- 犯罪は必然的に起こったものであり、犯人の社会的危険性が露呈したにすぎない(生来性犯罪人説)
- 犯罪を犯したことで、犯人が「内面の危険性」を持っていることが明白になったことから(徴表説)、「犯人という社会的に危険な存在」から社会を防衛するために(目的刑)、犯人を社会から隔離し(社会防衛論)、犯人を懲らしめ、再教育を施す必要がある(行為者処罰、保安処分)。【特別予防主義】
**今日の通説的な見解は、古典学派の「応報刑主義」を基本として、応報刑の範囲内で一定の目的刑を加味した「相対的応報刑論」の立場をとっています。**
(※)医療・福祉的な観点から考えると、”教育刑”を提唱する「近代学派」の考え方も悪くないと感じたものの、国家による強制的な刑罰の一環として、保安処分(治療・再教育等)が含まれ、権力による人間性の否定(行為者責任)が正当化されてしまう考え方に恐ろしさを抱きました。厳格であるべき刑法の中に、曖昧性を含む「近代学派」の考え方を取り込むことに違和感を感じたのかもしれません。「古典学派」は犯罪者に対しても自由意志を認めています(行為責任のみ。刑罰としての教育は存在しない)。消極的ではあるけれど、自由意志の中にある「本人を信じる気持ち」は有難いものだと感じました。(息苦しい世の中で、自由意志を持っている人がどれほどいるのか心配になりますが。。)
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「信じて任せなきゃ、何も始まらないでしょ。」
「前回やらかしても、今回ちゃんとやってくれればいいんだから。」
あの上司が、何を以て「信じること」にしたのかはよく分かりませんが、
彼女の有難い言葉を励みに、「ぼちぼちと」仕事に励んでいこうと思います。
もちろん、「定時帰宅宣言」は続けながら。。。
そして、、
『どんな厄介な人であっても、悪い人であっても、嫌な人でも、相手を信じる。』
相手を信じるために「なにか」なんて必要ない。信じることに見返りは求めない。
昔からずっと自分の心に留めていたはずなのに、心の余裕がなくなると、他のことの陰に隠れてしまうこの気持ち。
早速、神棚の下にでも貼っておこうと思います。
今日もありがとうございました。
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やす君パパのLiveブログ
伝えたい気持ちと 邪魔する『何か』 ~『ありのまま』の流れの中で、そのままを感じて行動する
最近ずっと、自分の気持ちを文字にする気になれませんでした。
何か書こうと思うのだけれど、私の心の中の何かが、足を引っ張っているのです。
いやはや参りました。。
自分では意識はしていないのだけれど、
もしかしたら「誰かに向けて書いてみよう」という想いを持ちすぎてしまったのかもしれません。
「何か気の利いたことを書いてみよう」
「こんなこと言ったら、相手に何を思われるだろう」
私の昔からの悪い習慣「人の顔色を窺い始めた」のかもしれません。
そして、相手が望むことをするために、頑張ろうとしていたのかもしれません。
何かが「ふっ」と思い浮かぶことも、いつの間にかなくなりました。
「インプットしないからアウトプットできないんだ」などという言葉を真に受け、
ブログに「アウトプット」するために、どうすれば良いか考え始めていました(※)。
まるで仕事をしている時のように。。。
(※)自分の気持ちを綴ろうと思った私のブログに、このやり方はあまり馴染まないというだけです。
数週間前のような、自然な、湧いてくるような感情が見えない。。。
自然と感じる気持ち、感じた気持ちを表現したくなる衝動が、私の中で見えなくなっている。。。
思考と不安に押しつぶされそうになっている。。
私は、「自分の中の見えない何か」を恐れ、焦りを感じ始めていました。
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そんな中、久々の深夜残業と深夜バスでの帰宅。。
乗客は7人だけの、週明けの静かな車内。
窓からの隙間風と車体が軋む音が、後ろから聞こえてきます。
前を走る車をぼんやり眺め、少しウトウトしながら、静かに自分を感じていました。
- 仕事に没頭していると、自分の「不安な気持ち」が少し紛れたような気がする。。不安な状態を紛らわすために没頭することは、目の前の問題から目を背けることにも繋がりそうだから、注意しておこう。。。
- あるモノに対する依存が解消されると、無意識のうちに「依存できる別のモノ」を探し、依存対象を置き換える心理は、このような感覚なのかもしれない。。背景には「不安状態の回避」という心理が働いている。こうやって「依存」はモノを変えながら繰り返すのかもしれない。。(※)
- ブログを書き始めたときには、誰かに気に入られよう、気の利いたことを書こう、なんて気持ちは全くなくて、ただ純粋に、自分の気持ちをオープンにしようと思って書き始めたはずだったのに。。。一体、自分は何を気にし始めたのだろう。。
- 「なるようになる」「自然を感じながら、身を任せればいい」と言っていたのに、なぜ今の自分はこんなに戸惑っているんだろう。。。もしかしたら「何かをやらなければならない」と、昔のように意気込み始めているのかもしれない。。もしかしたら「自分の中の不安感」が次第に大きくなっているのかもしれない。そして、自分自身を追い込み、焦りを感じ始めたのかもしれない。。。
心と体の力を抜いて、ただシンプルに。。。
- 「もっとゆっくり、ゆったりとした気持ちで感じよう」
- 「自分の心が感じたことを信じて、進んでいこう」
- 「考えるのではなくて、自分が感じた気持ちに正直になろう」
- 「自分の『ありのまま』の正直な気持ちと向かい合うことが、気付きのきっかけになる」
忘れそうになっていた大切なことを思い出し、
前向きな、すがすがしさを感じた深夜2時、私はバスを降りました。
=====
●『ありのまま』を感じようとすること
『ありのまま』を感じることは、意外と難しいものです。主観が邪魔をします。
「目に見えるもの」であっても『ありのまま』を捉えることは大変なことだし、
「目に見えないもの(感情、考えていること、望んでいること)」であれば尚更です。
「自分の心の中」のことですら思い悩んでいるにもかかわらず、
更に知り得ない「他人の気持ち」を分かりたいと望むことは、「無謀な挑戦」であるようにも感じてしまいます。
それにもかかわらず、
「他人の気持ち」という「目に見えないモノ」を知りたいと願い、
見えないことに焦りを感じ、不安に感じ、不信感を抱いてしまう。。。
以前の私は、この不安感を埋め合わせるために、「きっとこの人は〇〇と考えているのだろう」と想像していました。
見えない部分を、私の勝手な主観で埋め合わせていたのです。
これは、私のためであったとしても、相手のためにはなりません。
そして、私の想像をもとに相手に接することは、
私の先入観を、無意識の中で相手に押し付け、相手を居心地悪くすることに繋がるように感じます。
さらに、相手の『ありのまま』を感じる邪魔もします。
「相手の『ありのまま』を、そのまま感じてみる(客観的に捉える)」
「感じた『ありのまま』に、勝手な修飾は付け加えない(主観を加えない)」
「自分が感じた『ありのまま』に謙虚さを持ち、違和感を感じたらすぐに修正する」
「『ありのまま』には、自分の気持ちの「投影」が含まれる可能性を意識する」
「一度感じた『ありのまま』に固執しない」
勝手な主観を加え、相手を分かったことにするのではなく、
目の前の状況や事実に基づいて『ありのまま』を感じたいと、改めて思いました(※)。
そうすれば、勝手な思い込みによる相手に対する感情(不信感、疑い、不安)は消え、押し付けがましくなる優越感も消え、目の前の「ありのまま」の相手と、まずは力を抜いて、自然に接することができるかもしれません。
『相手に対する先入観は捨て、まずは目の前の相手を自分の心で感じてみる。』
大人同士でも、大人と子供であっても、
お互いに尊重し、心地よい関係を前提とした人間関係を作る上で、大切なことかもしれないなと感じました。
(※)自分の捉え方(主観)を肯定するために、相手の「ありのまま」(客観)を捻じ曲げて捉えてしまう状況も考えられます。小学生の時から違和感を感じていましたが、色々な場面で出くわします。本人が気付いていないことも多い。怖いことです。(⇒ http://www.yasukun-papa.com/entry/2017/07/17/090713 )
そして、自分のことについても『ありのまま』を感じてみる。。
余計なことは考えずに、余計な心配はせずに、目を背けずに、
自分の『ありのまま』の正直な気持ちを感じ、向かい合っていこうと思います。
(何度も言っている気がしますが、心配や不安を感じると、つい動揺してしまいます。再宣言です。。)
=======
余計なことに、振り回されずに。。。
自分ができることを、ゆっくり、着実に。。
そして、感じたり思ったことは、今まで通り、気持ちを淡々と文字にしていく。
何を言われても、しょうがない。これが自分の「ありのまま」なだから。
今日もありがとうございました。
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やす君パパのLiveブログ
川の流れに逆らわず、身を任せてみる ~3時間半の帰宅で感じたこと
首筋に何かが乗っている。体がどうしようもなく重い。
パーティションに囲まれた職場のデスク。
マウスを持つ右手が、小さく震えている。
「お前、大丈夫か?」耳元でもう一人の私がささやいた。
何かが私の元にやって来た。
首筋が重い、肩が重い、体から力が抜け、めまいがする。。。
体が動かない。心から何かが抜け落ちる。。
夕方7時過ぎ。重い体を引きずりながら、やっとのことで職場を抜け出した。
実際には、体の重みなど、全く感じなかったのだけれど。。
どのように、家の最寄り駅までたどり着いたか思い出せない。
途中で倒れるわけにはいかない、、ひとまず家にたどり付かなければいけない、、、
自分の意識とは別の何かが、体を動かしているような感覚だった。
人の波の中で、周りから取り残されながら、私はゆっくりと流れていた。
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気が付くと、最寄り駅のベンチに座っていた。時計は9時半を指していた。
家までの道のりを、ゆっくりゆっくり歩いていた。歩かされていた。動いていた。
まるで、川の流れにすべてを任せているようでした。。
そして、妻と付き合い始めて、二人で過ごしていた時期の、ある光景がふと浮かんできました。
私たちは、結婚するまで5年近く一緒に過ごしました。
彼女がお腹が痛いと苦しんでいるときは、私も決まって調子が悪くなっていました。
そして、「男なのにお腹が痛くなるなんて変な話だよね」と笑い合っていました。
結婚して、子供が生まれて、「がんばって夫にならないと」「親にならないと」「家族を支えないと」「みんなを守らないと」と追い込まれるうちに、
「一緒にお腹が痛くなる」なんてことは、いつの間にか無くなってしまったのだけれど。。
『首筋が重い、肩が重い、体から力が抜け、めまいがする。体が動かない。心から何かが抜け落ちる。。』という感覚。。
もしかすると、今の彼女の気持ちなのかもしれません。
あの日以降、色々なことを感じ、考え、自分に向き合う中で、私の中にある問題に気付かされてきました。
そして、今までの「力み」が体の中から抜けてきたことを、少しずつ実感できるようになりました。
上を向こうという余裕が生まれたし、見上げれば太陽を暖く感じ、星空がきれいで、雨に打たれても、気持ちがいいと感じられます。。
そういえば、小学校の帰り道、傘をさすことなんてほとんどありませんでした。雨の中でも濡れながら、草や土、アスファルトの匂いを感じながら、自然を感じながら、遊んでいたことを思い出しました。
仕事をしていても、余計な緊張は、ほとんど感じなくなりました。無駄に力まなければ、それなりに上手くいくことを実感するようになりました。。
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『顔の見えない誰かが、私に銃を突き付けながら、助けてほしいと言っている。』
『絶対的に優位な相手が、優しい顔で何かを求めている。斧を片手に持ちながら。。』
朝から心の隅で引っ掛かっているこの感覚に、私は小さな違和感を感じていました。夢を見たのかもしれません。私はどう接すればいいのか戸惑いも感じていました。
ただ、これは今の私の置かれた状況であり、そして、以前の私がやってきたことなのかもしれない。。。
『首筋が重い、肩が重い、体から力が抜け、めまいがする。体が動かない。心から何かが抜け落ちる。。』という感覚。。
もしかしたら、妻が感じている苦しさや辛さが、昔の私達のように、共鳴し合っているのかもしれません。
自分が感じている「気持ち」を何とか解決をしようと、力みすぎるのではなく、
打ち寄せる波、潮の満ち引き、川の流れ。。。自然の流れに任せてみようと思います。
考えるのではなく、感じてみる。。
私たちは、自然の中の一部分でしかない。
その中で、今という時間を生きているだけ。
私が感じた潰れそうな気持ちは、
妻の感じている苦しさや辛さなのかもしれない、と思いながら、
私もそのままの気持ちを、しっかりと受け入れ、感じていきたいと思います。
そして、妻の気持ちもどうか少しづつ癒されてほしいと、神棚に手を合わせながら、心から祈っていこうと思います。
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水木しげるロード@境港 この年は酷暑だったにもかかわらず、訪れた途端、急に寒くなりました。水木先生は相当なお年(70ちかく?)になっても、九死に一生を得られたようです。。この生き方に感心。
この気持ちも、しっかりと感じ続けようと思います。
久々に村山由佳氏の作品に久々に再会できたこと、、今の私にとって大きな意味のあることでした。
ずっと忘れそうになっていましたが、妻のことが大切だと感じていたことを思い出せたことで、現実から逃げずに、相手を非難する気持ちも持たずに、目の前の出来事と向かい合っていられるのだと思います。村山氏にもありがとう。
今日もありがとうございました。
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やす君パパのLiveブログ
黒いネズミと、妻の一言 ~夢の中で教えてもらえた大切なこと
ベランダにある、ハイビスカスとガジュマルの植木鉢。
その隙間を、小さな黒いものが横切った。
あれはネズミに違いない。
電気がついた部屋の中、ベットの上で目が覚めた。2時だった。
黒光りした毛並み、一瞬見えた横顔、、、
上の子が遊びに来てくれた。。
疑うことなく、私は直感しました。
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最近、良いことがあった。
夢の中で人と会っている。
まずは、ネズミの姿をした上の子に出会えたこと。これは本当に嬉しかった。
もう一つは、妻が出てきたこと。
なんとも言えない表情をした彼女は、私に大切な助け舟を出してくれました。
「なぜ、あなたは自分がやってきたことを、ブログにはっきり書けないのか?」
「私に対してしたこと、言ったことについて、なんでちゃんと書けないの?」
そして彼女は続けました。
「どうせあなたは、振り返る必要ないと思ってんでしょ。」
「いつものように、外面だけ気にして、いい人ぶっているだけ。」
「書いたら批判されると思ってるから、どうせまた逃げているんでしょ。やっぱりあなたのことなんて信じられない。」
「やっぱり自己正当化してる。心の中では原因を私に求めて、言い訳し続けている。」
彼女が何を感じて、
このようなことを言いに来てくれたのか、良くわかりません。
今までの私は、彼女の言動に対し、
必要以上に反応し、暴力をふるい、傷つけてしまう人間でした。
そして、あの日以降、専門家の助けてもらったり、このブログの中で、考えたり感じたことを書き出したりしながら、
- 原因と暴力の間に、因果関係など生じ得ない。
- 不快なことをされたり、期待に応えてもらえなくても、相手に対する「加害行為・加害意識(※)」の原因にはなり得ない。(※)暴力に限らず、言葉による攻撃、相手の否定・非難・嫌悪感を持つことを含む。
- 「自己の加害性を認める」ことを常に意識しながら、落ち着いて過ごす
- 他人を変えることなんで、決してできない。変えられるのは自分の感じ方や行動だけ
この考え方を、数か月たった今、違和感なく受け入れられるようになりました。
そして、仕事や生活の中で、以前感じていたようなストレスはほとんど無くなり、肩の力も抜け、
日常的に心の中に潜んでいた「怒りの感情(※)」も、全く顔を出さなくなりました。
そして、暴力やひどい言葉を吐きたくなることは、きっとないだろうと思っていました。(変な気持ちにならないか、いつも自分を見張り続けています。)
(※)以前の私は、仕事で直面した問題を解決するための原動力として、心の中で感じた「怒りの力」を利用していました。感情を外に出さない限り、何の問題ないと考えていました。(⇒ http://www.yasukun-papa.com/entry/2017/07/21/083000 )
ただ、彼女の言葉をよく思い返すと、
- 抽象的な話(人間性や思考の枠組み)だけでなく、具体的な行為に落としこんで、もう一ど見直せ(相手の感情を感じてほしい!)
- マクロ的な観点だけでなく、ミクロの観点からも捉えよ(相手の感情を感じてほしい!)
または、
- 加害者なんて、周りの人からもっと非難されればいい。
- 加害者は、周りから非難されることで、やってきたことに始めて気付ける。
- その姿を見ることで、被害者は安心し、納得するんだよ。
- 私がされたように、周りからもっと傷つけられてほしい。
- 私が望む行動をとれないなら、あなたのことを受け入れることはできない。反省しているなら、私の言うことを聞けるはずだから。
と言われているようにも感じられます。
ただ、周りから何を言われたとしても、
私ができることは、自分のやってきたことを、しっかりと振り返ることだけです。
そして、どのような結果が生まれるか、思い悩んだり、不安になったりする意味もあまり感じません。(※)
(※)先回りして心配し、不安になって、身動きが取れなくなることは生きづらさを生みます。以前の私は、小さな不安を感じる度に、不安感を増大させ、つぶされないために先回りして問題の芽に気付き、摘み取ろうとするような人間でした。そして、次第に大きくなっていく感情に、押しつぶされてそうになっていまいた。不安や心配は人を追い込み、正常な判断を妨げます。
- 一面的な見方ばかりしていたら、見落としが生まれる。
- 頭で考えるだけじゃなくて、具体的な状況・ミクロの観点からも捉えなおすことで、心で痛みを感じてみたほうが良い。
彼女の発言は、至極正論のように感じます。
確かに、これまの内容を読み返しても、
自分がしてきたことについて、あまり書けていないことには、私も気付いていました。
ただ、残念なことに、
相手から傷つけられたと一方的に思い込んで、過剰に反応して、その怒りを、相手に対して必死になってぶつけてきたことは思い出せるのですが、
私がやってきた具体的な言動については、正直あまり思い出せませんでした。
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そんな時に、彼女のメモを見つけました。
- 出産を控えている時に「保険に入っておいて。出産は一番死ぬ確率あるでしょ」と言われてどうしようもなく傷ついた。
- 上手く育たず中絶したことに「また災いをもってきて。お前のせいだ」と言われて、どうしようもなく辛かった。
彼女に対して、実際にどのような言葉をかけたのか、はっきりと覚えていません。
ただ、このような言葉を言いたくなる気持ちがあったことは事実だと思います。
「なんでそんなことを感じるのか?」「なんで、言ってしまうのか?」と聞かれると、
「彼女から受けた言葉」「被害者意識」「これまでの夫婦関係」について、つい喉まで出てきそうになります。
しかし「他責にする」「原因を相手に求める」「事情を説明して理解を求めようとする」ことは、自分のための行為です(これは「自己の加害性」に該当します)。
今の私は、家族との関係性の中で、
自分のための言い訳をするつもりはありません。
彼女は傷ついていた。。
他のことは一切考えず、このことだけに、しっかりと向かい合いたい。
わたしは、妻を傷つけました。
そして、どうしようもなく追い込まれている状況で、このような言葉をかけられたら、彼女は、動けなくなるほどの心の痛み、悲しさ、放任された気持ちを感じていたに違いありません。
一晩座って感じ続けました。この言葉を、妻になった自分にかける度に、涙と嗚咽が止まらなくなりました。そして、言ってくる相手に対して、どうしようもないほどの絶望感、離れて行く気持ちを感じました。。そして、怒りと無力感を感じました。
そして朝、このようなことをしてしまう自分に戻ったとき、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。自分に対して、どうしようもないほどの嫌悪感を感じ、涙が止まりませんせした。なぜ私はこんなことをしてしまったのか。。。どうしてそんなひどい人間なのか。。
今の私が何といえばいいのか分かりません。
ただ、あなたにひどい言葉をかけてしまったこと、心から申し訳なかったと感じています。
あなた傷つけ、追い込んでしまったことをしっかりと認めて、心からごめんなさいと言いたい。。今更すぎるかもしれないけれど。
そして、あなたの心の痛みが少しでも癒されることを、真に願いたい。
あの日の後に作った神棚に毎日手を合わせながら、
自分のしたことから目を背けず、しっかり心に刻んで、自分の行いを見つめて行くつもりです。そして、あなたの心の痛みが少しでも和らぐよう願いたい。。。
これは、自分に対する追い込みなのか。。
何かに突き動かされているのか。。。
今日は朝からどうしようもなく辛いです。
そして、この辛い気持ちを感じながら、今日一日を過ごそうと思います。
外から強要されると、反発したくなります。なるはずでした。
ただ、自分の心の中から生まれた気持ち、自分で受け入れることができた気持ちであれば、しっかりと向かい合うことができるはず。。今のところ、違和感や反発は感じてなさそうです。。ひとまず良かった。。。
『他人を「カエルコトハデキナイ」。でも自分の感じ方や行動であれば「カエラレル」』
『ゆっくりと、でも着実に。。。』
これからも目を背けず、嘘を付かず、まっすぐ歩こうと思います。
夢に出てきてくれた子供と、
大切なことを気付かせてくれたあなたに、心からありがとう。そして本当にごめんなさい。
今日もありがとうございました。
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やす君パパのLiveブログ
『自己の加害性を認める』 ことが与えてくれるもの ~「エエカッコ」をやめて、心で感じて考える
久しぶりの青空。
空を見ていると、心も少し晴れる。
今回のことがきっかけで、
これまで気付いていなかったり、無意識に避けていた、
「見方や考え方」に接する機会が増えている。
ただ、接するだけで良いなら簡単なのだけれど、
自分の中に取り入れようとすると、「厄介な問題」に直面する。
- 接した見方・考え方に対する自分の解釈は本当にあっているのか?
- 今まで自分が持っていた考え方と、どのように調整を付ければよいのか?
- 今までの考え方と相反する場合、切替えてしまってよいのか?
- 切替えた場合、きっと心理的にも大きな苦しみを伴うはず。
- そして、切替えた場合、それは、信仰にも似た依存状態(自己完結型の洗脳)に繋がる可能性があるのではないか?
- 安易な気持ちで切替え、依存し、そして上手く行かなかった場合、自分で解決することはできるのか? 誰かを頼らないと解決できなくなってしまうのか?
- そして、安易な依存がきっかけとなり、ずるずると周囲に依存する人間になってしまうのではないか?
ただ、実際のところは、「厄介な問題に直面」なんて大げさに言うよりも、
「いろいろ悩みを膨らませると、すっごく不安になるんだよね~♪」
あたりの表現がちょうど良いのかもしれない。
だって、5つ目以降の「厄介な問題」なんて、自分の中の不安が増長しているだけだから。
避難訓練後の消防士さんの「いつもの話」も参考にさせてもらって、
「重大だと感じたことは落ち着いて、大したことないと感じたことはしっかりと」
という考え方で進めればいいのかな~って思う。
命を懸けている消防士さんたちの言うことは、
それだけで、積み重ねられれた深い意味を感じられますしね。
ということで、
「新しい考え方を取り入れるときは、結構不安なんだよね~。もしかしたら間違って捉えちゃってるかもしれないしね。 」
「でも、自分の解釈や捉え方が違っていたって、自分に嘘を付かず前向きに進もうとしているんなら、まぁいいさ!」
「上手く行かなければ直せばいいだけだから。」
と考えることにして、
深刻に思い悩みそうになっている問題こそ、
強いて冷静に、落ち着いて進めることにしたいと思います。
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前置きが長くなったけれど、あれからずっと思い悩んでいる問題。
「自己の加害性を認める」ことは、自分にどのような影響を与えるのか。
宗教的な観点からの解説も深そうですし、その道の専門家に当たれば、
ちゃんとした解説を受けることはできるように思います。
ただ、解説に当たってみたものの、私自身は「加害性を認める」ということの真の意味について、実感を伴った理解ができているのか、全く自信がありません。。
ということで、
ここでは「無理せずカッコも付けない自分」が、
ひとまず自分で思い至って、納得できたところまで、忘れないうちに言葉にしておこうと思います。
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「自己の加害性を認める」ことにより、どのような結果が期待できるのか?
(1)まず「自己の加害性」とは何か?
- 相手の言動に不快感を持った場合、心の中に生まれた「被害性」(不快感に対する負の感情、心の痛み)を意識し、相手に反応(反発)したくなることがある。【外的要因による不快感の発生】
- また、外的要因が原因となるだけでなく、自分の心の中にある「不安感」「心理的な不安定さ」からも、反応(反発)したくなる気持ちが生まれることもある。【内的要因による不快感の発生】
- ここでは、外的・内的要因を原因として、「相手に反応(反発)したくなる欲求」「相手に向けられた不満・言動(※1)」を「自己の加害性」(※2)と呼ぶことにしようと思います。
(2)「自己の加害性」をどのように捉え、処理するか?(過去の私の捉え方より)
- 程度の差はあるものの、全ての人は「自己の加害性」を持っています。
- しかし、多くの場合、人は「自己の加害性」よりも相手から受けた「被害性」に意識を向けがちです。
- この場合、「自己の加害性」は、相手から受けた「被害性」や心の中にある「不安感」によって正当化されます(「相手が原因だった」「〇〇でなければ、そんなことしなかった」という気持ちを持ってしまう。「被害性」は「自己の加害性」に気付くことを邪魔する)。
- 「自己の加害性」が正当化されることにより、相対的に被害性(不快感に対する負の感情、心の痛み)に意識が向き、心の中の「被害者意識」は次第に大きくなっていきます。
- そして、小さな被害を受けただけでも、敏感に感じ、いつも以上に反応してしまう可能性があります。(「また○○をやられた」「あの人は何度言っても○○してくれてない」という感情を持つ。更に、諦めや人格否定などに至ることもある。)
- そして、「自己の加害性」(※1)に対する歯止めが利かなくなる。
(※1)「加害性」は、相手に対して言葉、力、嫌悪感、否定 という形で現れる。
(※2)今回は、自分の心の不安定さを原因として、相手に向けるものに限定します。もう少し広く捉えると、「自己の加害性」は「相手に不快感をを難じさせること全て」と捉えることが適当なのかもしれませんが、まだ上手く説明ができません(自己の存在に対する罪の意識、究極的な謙虚さ、として説明できそう泣きもしますが、まだ表面的な説明しかできません。)
(3)「自己の加害性」を意識することにより得られる結果
① 人間関係の観点から(マクロの観点)
⇒ 人間関係悪化に至る状況に気付く「きっかけ」になる。
<関係悪化のスパイラル>
自分「被害を意識 ⇒ モヤモヤ・腹立たしさ・自己防衛⇒ 相手への加害(力・言葉・嫌悪・否定)』
⇒ 相手「被害を意識 ⇒ モヤモヤ・腹立たしさ・自己防衛 ⇒ 相手への加害」
⇒ 自分・・・

(→ http://www.yasukun-papa.com/entry/2017/08/25/2330 より)
② 自己の問題を振り返る観点から(ミクロの観点)
⇒ 自分の中の問題に気付く「きっかけ」になる。
<自分の中の問題を探して、認め、自分と誠実に向かい合うこと>
- 「自己の加害性」を意識し、存在を認めることができれば、加害性が生まれた原因について考え、感じようとするきっかけになる。
- 自分の心と向かい合い、加害性が生まれた原因(痛みの元、自分の中の問題)を見つけることができれば、その原因を認め、和らげようとしてみる。(時には助けも借りながら。)
自分の中の問題と向かい合い、上手く受け入れられることができれば、痛みも生まれず、加害性も生まれず、自分も楽になる。

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『「無理せずカッコも付けない自分」が、
ひとまず自分で思い至って、納得できたところまで、忘れないうちに言葉に・・・』
ひとまず、こんなところです。
「自分の加害性にだって、理由はある」
「加害性はダメなこと」「人を傷つけることはダメ」
「自分が嫌なことをやっちゃいけない」
これはもちろんなんだけれど、
「加害行為をするか否か」というギリギリのラインに追い込まれた状況で、
実際にするか、我慢できるかを試された場合、言われた側は結構苦しいものです。
これまでの私は、
「自分に痛みを与えてくる相手の事情を理解できれば、やむを得ないと納得できる」
と考えて、自分の周りで起こる色々なことを許してきました。
本当は、自分の心が痛くてたまらなくても、
相手を理解し、自分を納得させ、耐えればよいと考えていました。。
確かに、この考え方は、自分の気持ちをコントロールする上で、相当の効果がありました。しかし、何年も耐え続けた末、自分の限界を超え、最終的に破綻しました。
ただ、当時の私は、
もう一つ奥に隠していた自分の気持ち(無意識的に守っている自分の心の問題)には、気付けていませんでした。
ただ、「痛みの元」(問題の大元)を意識して、
しっかり問題に向き合い、根っこから処理する(上手く受け入れられるようになる)ことができれば、何かいいことが必ず起こる気がしています。
そして、最近いくつかの「痛みの元」に気付き、目を逸らさずに向かい合うことで、
心の中にあったわだかまりが、少しづつ溶けて行くような気持ちになりました。
まぁ、ひとまず悪い方向に向かっていないみたいな感じがしています。。。
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『 「自己の加害性を認める」ことにより、どのような結果が期待できるのか?』と
一週間後にもう一度聞かれたら、
「よく考えたら間違ってるところに気付いたから、少し見直すことにした」と言ってしまうかもしれません。
でも、言うことがコロコロ変わっても、気にしない。
何かに気付いてしまったら、考え方や行動なんて、簡単に変わってしまいます。
- 現在の自分から導き出せる考え方はここまでで、考えに至る過程では、自分の良心に誠実に、嘘を付かずに導き出している。
- 目の前には、今までの考え方に縛られていた世界とは違う、新しい考え方の世界が広がっていることは間違いない気がしている。
- そして、心理的につぶされそうな気持は、楽になってきた。
このことだけなら、私も胸を張ることはできます。。
「今までお前がやってきたことを考えよ!言える立場か?」と聞かれたら、ただ謝ることしかできないんですけどね。。
一度決めた考え方に、固執なんてするつもりはありません。
たとえ風見鶏と言われても。
ずっとモヤモヤして纏められなかったけれど、
ひとまず自分の中で納得できたところまで、何とか言葉にできました。。
私の心の中の「触れてはいけなかった部分」が、
白日の下にさらされ、向き合い、「心の中のタブー」が少しずつ消化されていくこの気持ち。。。
引き続き家庭内の問題は継続中ですが、
自分自身の問題はしっかり切り分けて、少しづつ前に進んで行こうと思います。
執着と依存と没頭(※)は本当に怖いから。。ぼちぼちとね。。
(※)一つの考え方、仕事、習慣、価値観、こだわり、、、
今日もありがとうございました。
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やす君パパのLiveブログ。
自分が起こした失敗や問題に対して「被害者意識」なんて持ちません。
自分の事情を説明して、理解を求めようとなんてしません。
理解してもらって、安心したいなんて思いません。
日頃の生活の中でも「自己の加害性」を感じながら、毎日を謙虚に過ごそうと思います。
- 自分の問題は、直視する。
- 人のせいにしない。
- 問題の対応を先延ばしにしない。
- 忘れようとしない。
言葉にしてしまうと、
今日の空のように、なんか気分も良いものです。
でも、この考え方を周りに強要することは、「ダメ、ゼッタイ!」です。
他人を「カエルコトハデキナイ」。「カエラレル」のは自分の感じ方や行動だけ。
『10歩8秒の世界』から見えたもの ~”ヘンな行動” で気付く、落ち着くための心がけ
暖かな昼休み。久しぶりに外に出た。
まわりの人の動きが早い。
私は一人、取り残されていく。
オフィス街の昼休み。
どの店にも行列。サラリーマンが連れ立って歩いている。
横目で見ながら、私は歩いている。
彼らは、なぜそんなに急いでいるのだろう。。
なぜ、そんなに輝いているのだろう。。
そして、本当に、心から輝いているのだろうか。。
自分に無理をしていないのだろうか。。
周りが見えなくなるほど、一生懸命になりすぎていないだろうか。
他人事ながら、少し心配になる。
少し前まで、私も「向こう側の人」のつもりだったから。。
=====
相変わらず、自分の気持ちに嘘をつかず、正直に、自分を見つめています。
ただ、どういうわけか、
以前のように何かに「ふっ」と気付く、ということが最近少なくなりました。
心の中の雑念が多すぎるのか、気が散っているのか、参っているのか、
望んでいないのに仕事に追われているからなのか、よくわかりません。
そして、よくわからない何かに対して、すごく焦りを感じています。。
ただ、行き詰った時はあきらめて、
いつもとは違う「”ヘン”な行動をとる」ことで、何か見つかるかもしれない。。。
=====
私は、少し前に考えたことを思い出しながら、
自分の中の時間の速さを変えることにしました。
こうして文字にしてみると、
一体自分は何を言っているのかと、苦笑とともに、少し悲しくなってきます。。
以前の記事で書いた、寝入りの夢の話。。。
「ヒト」と「ハエ」では、時間の流れや、見え方が違うのではないか?
ということをお話ししました。
- 「ハエ」と「ヒト」
- 「アリ」と「ヒト」
- 「ビルの屋上」
飛んでいる「ハエ」を捕まえることは、「ヒト」にとって簡単ではありません。彼らの動きは、あまりにも機敏すぎる。。
「見方の違い」には色々な観点がありますが、
「ヒト」と「ハエ」では「時間の流れ」が全く違うのではないかと感じました。
「時間の流れ」が違えば、見方や感じ方も当然違うはず。。
私たちに動じることなく、五月蠅く飛び回る姿を見ていると、
彼らと「ヒト」は、 ”次元”の違う世界に生きていると思わざるを得ません。。
今回意識した「時間の流れ方の違い」という新しい観点から、
自分の周りのことを、もう一度見返してみる。。
(⇒ 隠していた『ありのまま』の自分を感じること。”アリのパパ” にならないために。。 ~自分の考え方を振り返る - Yasukun-papa は「おひとりさま」 )
通勤、昼のオフィス街、休日の街中。。
私は「10歩8秒の世界」で生活してみることにしました。
そして、2週間が過ぎました。
電車に乗り遅れそうになっても、周りから取り残されても、振り返られても、
何にも動じることなく、呼吸を整え、姿勢を正して、
周りを見ながら、ゆっくり、ゆっくり歩く。
人の流れに取り残されながら、
せっかちに速足で移動する人の流れを眺めていると、不思議な気持ちにさせられます。。
- 昼休みだというのに、彼らは一体なぜ、ここまで急いでいるのだろう。
- そして、飲食店の長い行列に、何を思いながら並ぶことにしたのだろう。
- あの5人組からは、どうして一人だけ所在なげな印象を受けてしまうのだろう。。
- あのサラリーマンは、電車の遅延に顔をしかめている。何を感じているのだろう。
- 息を切らしながら電車に飛び乗った女性は、なぜそんなに急いでいたのだろう。
- 私を追い越しながら振り向いた人は、一体何を感じたのだろう。。
- 彼らは、今の生き方に、違和感や息苦しさを感じないのか?
- その世界で生きることで、精一杯になっていないか?
このゆっくりした世界に身を置いていると、
世の中、特に通勤時間、昼休みのビジネス街の喧騒に、
どうしようもない程のせわしなさを感じるようになりました。
そして、電車が遅れても、乗り損ねそうになっても、抜かし際に睨まれても、動じることなく、
自分の周りの時間の流れを、ゆったりとしたものに置き換えてみると、
この世の中にも、別の生き方があることを実感させられます。
今までのように、
バタバタと動かなきゃいけないわけじゃない。
そして、このゆったりとした時間も感じていたい。
周りの様子を窺い、何か言われることを気にしながら動く気にならない。
周囲からの刺激に、すぐに反応する気にもならなない。
睨まれたくらいで、動じる気にもならない。
まずは、ゆっくりと周りを見渡して、呼吸を整えて、
気持ちに余裕をもって、正しいと思うことを胸を張ってやればいい。
その結果を、気にしすぎる必要はない。
最後は、成るように成るのだから。
ゆったりと時間が流れる「10歩8秒の世界」は、こんなことに気付かせてくれる世界でした。
=====
自分が置かれている環境や、自分の考え方を、”普通” だと思ってしまうことは危険です。
いつもとは違う「”ヘン”な行動」をとってみるだけでも、
身近なところに、全く別の世界が広がっていることに気付かされます。
そして、駅で久しぶりにおばあさんに話しかけられました。
「雨なのに朝から大変だねぇ。。」
「あんた、どこまで行くの?」「うちの孫はねぇ・・・」
彼女は「10歩8秒」、いやもっとゆっくりとした世界の人だったのかもしれません。
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「10歩8秒の世界」の中に自分を置くことを意識できれば、
・気持ちに余裕を持つことができる。
・外からの刺激に、すぐに反応する気にもならなくなる。
・相手の言動に動じる気もなくなる。
・・・気持ちを落ち着かせるための、新しい心がけに気付けたのかどうか、自身はありません。
でも、ひとまず、「新しい見方」だけは手に入れました。。
せっかく手に入れたので、
本当に効果があるのか、仕事や、日頃の生活の中でも、意識して使ってみようと思います。
=====
私は今、行き詰っています。
ただ、少しだけ楽観的になって、前向きに捉えてみると、
「自分のこと」を振り返る段階から、次の段階へ進めという事なのかもしれません。
そして、DVの原因になっているかもしれない父親から受けたストレスについては、
助言も受けながら、上手く自分の中で消化するために、取り組んでいるところです。
苦しくなったら、一休みしつつ。。。ゆっくり、ゆっくり歩きます。。。
いつもありがとうございます。
そして、今日もありがとうございました。
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やすくんパパのLiveブログ。
